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特定非営利活動法人 旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

 旧陸軍桶川飛行学校(以下「飛行学校」)は熊谷陸軍飛行学校の分教場として昭和12年6月、現在の桶川市川田谷に開校しました。初級の飛行技術を教える学校で、昭和20年の閉校までに約1,600名の航空兵を輩出したと推定されています。全国の多くの飛行学校跡地が住宅や工業団地に変わったなかで、この飛行学校は住宅困窮者の住居施設として平成19年まで使用されていました。そのため、当時の飛行学校の雰囲気を残したまま平成28年5月まで残っていました。
 敷地建物の所有者である桶川市は平成28年2月、これらの建物群を市の有形文化財に指定し、5月から解体、平成31年度に解体前の姿に復元する予定です。
 今回は、飛行学校が桶川市に存在した事実を伝え、平和を考えることを目的に、同校の歴史調査の段階から関わっている、特定非営利活動法人旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会(以下「語り継ぐ会」)理事・事務局長の鈴木さんと、同会理事の天沼さんにお話を伺いました。

  • 共助社会づくり課
    「飛行学校の文化財指定と保存復元は、語り継ぐ会の市民活動が後押しとなり決定したと伺います。まず、活動を始めたきっかけについて教えてください。」
    冬の飛行学校
     冬の飛行学校

  • 語り継ぐ会 鈴木さん
    「私は平成15年ごろ、桶川市の職員として平和事業を担当していました。広報掲載用に戦争体験記を編集している中で飛行学校の存在を知り、仕事として詳しい調査を始めたのが、この活動のきっかけです。
     飛行学校にいた飛行兵や飛行学校に勤めていた軍属の方たちは、所属ごとに同窓会のようなものを各地で開催していました。その方たちを訪ね歩き、一人ひとりインタビューを重ねました。その結果、飛行学校の当時の様子が次第に明らかになり、体験記や遺品なども集まってきました。訓練中の特攻隊員に送られた「轟沈」と血で書かれたハチマキや、隊員が出撃前に父に宛てた最後の手紙などもそのひとつです。
     その後、桶川市主催の平和事業で度々、取り上げられるようになり、徐々にその存在が広く市民に知られるようになって、建物保存の要望の声も届くようになったのです。」  

  • 共助社会づくり課
    「実際に飛行学校の保存が決定するまでには、『語り継ぐ会』として、どのように市民活動を進めていきましたか。」

  • 鈴木さん
    「平成20年5月頃から、飛行学校現地の清掃活動を始めて、建物内部で歴史資料の展示と解説を行う一方、保存を求める署名活動を始めました。市内だけでなく、全国から1万4千を超える署名が集まり、保存要望書に添えて桶川市長と埼玉県知事に提出しました。この活動の甲斐もあり、平成22年1月、桶川市は国から飛行学校の敷地を購入(建物はすでに市の所有だった)しました。
     しかし、敷地建物は市の所有になったものの、この朽ち果てそうな木造建物の取り扱いは難しく、また、保存には多額の費用もかかるため、すぐに保存決定に結びつけることは出来ませんでした。そこで、『語り継ぐ会』が開催したのが、戦争遺跡としての意義と、70数年経過した木造建物の取り扱い、さらには、これらをどのように平和事業に結びつけるかを考えるシンポジウムでした。各分野の専門家の解説や保存方法の提案などを契機として、その後、徐々に市民のなかに飛行学校保存の機運が高まり、平成28年2月に市の文化財指定となりました。」

  • 共助社会づくり課
    「現在、飛行学校は復元に向けた工事中とのことですが、どのような心境ですか。」

  • 鈴木さん
    「復元工事が決まり、嬉しく思っています。その一方で若干不安なのが、工事の手法についてです。今回の工事では、飛行学校を全て解体し、その部材をできるだけ利用して当時の姿に復元します。この手法では校舎が綺麗になりすぎてしまい、当時の雰囲気が失われるのではないかという心配もあります。解体せずに、毎年、部分的に補修していく方法も提案されましたが、どちらを選んでもとても難しいと思います。全国に散らばる戦争遺跡は、その多くが司令部跡などの強固な建物や地下壕、掩体(えんたい)のような土木構築物です。老朽化の進んだ木造建築物の「保存」の例は全国的に初めてと考えられ、その保存手法は関係者に注目されているようです。」
    ※掩体とは・・・戦時中に作られた、飛行機を爆撃から守る防空壕のこと
    解体前の飛行学校全景 復元工事に向け現在は解体されている
    解体前の飛行学校全景            復元工事に向け現在は解体されている

  • 共助社会づくり課
    「現在、会報の発行のほかに、飛行学校の概要を解説した映画制作や特攻隊のエピソードを紙芝居にするなど啓発に力を入れていらっしゃいますが、制作に当たり意識した点や力を入れた点を教えていただけますか。」

  • 鈴木さん
    「将来の記録として残るように、また、見てもらう人に本当の飛行学校の姿を知ってもらえるように細部にまでこだわりました。例えば、ラッパの音はトランペットでなく当時のラッパの音を使い、訓示を受ける際の飛行兵の並び方や服装、言葉遣いなどは、元整備員や当時を知る会員の意見を取り入れ、かつ、現代の人にも映像的に理解できるよう注意を払いました。」
    天沼さんと共助社会づくり課職員(滑走路前で) 天沼さんの防止には飛行学校のバッチが(複製品)
    天沼さんと共助社会づくり課職員(滑走路前で)天沼さんの防止には飛行学校のバッチが(複製品)

  • 共助社会づくり課
    「天沼さんが幼いころに飛行学校が開校したそうですが、飛行学校にはどのような思い出がありますか。」

  • 語り継ぐ会 天沼さん
    「私が5歳の時に飛行学校が開校しました。大空を縦横無尽に飛行機が飛び回る様子は今でも脳裏に刻まれています。
    滑走路は現代の空港のようなコンクリート舗装ではなく、草原のような場所でした。飛行機は決められた一つの方向に飛ぶのではなく、教官が命じる方向に向けて、次々と飛び立っていました。飛行機は「赤とんぼ」といわれる2枚羽根の飛行機で、上空150~300メートルぐらいを水平飛行し、時には10~20メートルの超低空で飛行していました。エンジンは9気筒でマフラーは付いていなかったので、低空飛行をする際のエンジン音は大地が割れんばかりの爆音でした。」

  • 共助社会づくり課
    「兵士の方や飛行学校のことで印象に残っていることはありますか。」

  • 天沼さん
    「兵隊(飛行兵のこと)は上半身裸でツバの短い白帽子を被り、白いズボンを履いて、幅広のバンドを締めていました。30~40人ほどの人数で隊列を組み、皆で掛け声をかけながら村道を駆ける姿が印象的でした。
     飛行場は荒川の本流と古川の間に位置していて、兵隊が非番の日には私も一緒に古川で釣りをして、魚を鍋に入れて料理をしていたという思い出があります。兵隊が子どものように振る舞う姿を見て親しみを感じました。
     空中戦の練習をしている光景も目にしました。飛行機が旋回に旋回を重ね、相手の飛行機の後ろに回り攻撃をするという訓練はすさまじいものでした。」
    桶川市による復元工事 語り継ぐ会が設置した飛行学校の看板
    桶川市による復元工事            語り継ぐ会が設置した飛行学校の看板

  • 共助社会づくり課
    「最後に読者の方に向けてメッセージをお願いします。」

  • 鈴木さん
    「語り継ぐ会の会員の多くは高齢ですが、後世に飛行学校の史実を伝え語り継いでいくためには、若い人たちの力も必要です。私たちの活動に興味を持っていただけましたら、ぜひ御連絡をいただきたいと思います。」
    語り継ぐ会HP https://www.okegawa-hiko.org/


    鈴木さんと天沼さん(兵舎のあった所の前で)

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