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燈台(アフガン難民救済協力会)

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燈台」はアフガン難民およびアフガニスタン共和国民のために、

同国内および周辺地域において医療、教育などを実践することで、

アフガン難民の福祉・健康の向上に寄与することを目的としている

 

 「燈台」はアフガン難民およびアフガニスタン共和国国民のために、同国内およびその周辺地域において医療および教育などを実施することにより、アフガン難民の福祉・健康の向上に寄与することを目的としている。この目的達成のために、キリスト教精神による「愛の実践」と「アフガン難民が、自国難民のために奉仕する場の提供」が活動理念。広報担当理事の星野隆三さんにお話を伺った。

 

アフガニスタンで学校建設 カズニー州ジャグリー県との協働事業

 2005年11月、アフガニスタンのカズニー州ジャグリー県はこの会に学校建設を依頼した。これは、県の土地を一部譲渡し、生徒数360名、教職員数17人の中高一貫校を3ヵ年計画、予算1500万円で建設するというもの。アフガニスタンでは、建設会社が工事を請け負うのではなく、職人が仕事を請け負うという。その職人個人の労働如何で工事が進むのでとても時間がかかったそうだ。また、当時政権をとっていたタリバン政府は教育の必要性を否定していたので学校建設のための物資や建設資材の運搬も困難状態であった。しかし、学校の先生方も率先して建設を手伝い、また政権も変わり、ようやく完成。今までは中学1年からの7年生だったが、新しい学校では、カズニー州の教育省からの要請で、2009年から小学1年生から受入が出来た。

 

燈台(光: ヌール) 学校設立

 この会の活動の始まりは、30年前に遡る。1979年12月、旧ソ連軍が突然アフガニスタンに侵攻してきた。このためアフガニスタンの人々550万人が世界最大規模の難民となって国を出た。当時、アフガニスタンのカブールに住んでいたN夫婦はいったんは日本に帰国したが1987年にパキスタンのアフガン難民キャンプを訪問した。このときキャンプで次々に子どもたちが死んでいく姿を目の当たりにした夫妻は子どもたちの命を救うため、「燈台:ヌール(光)クリニック」をパキスタンのクエッタ市開設することを決意した。日本の南福音診療所(埼玉県北本市)の保証とアフガン難民のなかの医師、看護士、検査技師、事務長などの協力を得て、多くの小児の病気を治療し救命に尽力した。日本国内では、1987年前身の「燈台」を設立、第1回理事会を開催した。

 1988年子どもたちの要望でクリニックの庭にテントを張り、これもアフガン難民のなかから教師を採用し、生徒数32名で「燈台:ヌール難民学校」を始めた。アフガニスタン(イスラム圏)では稀有で歴史的に重要な男女共学の授業形態を行った。1989年成人を対象に「技術習得奨励基金」を創設し、自立のための看護士、検査技師学校を併設し、1995年には生徒数1300人を超え、初の高校卒業生を送るまでになった。2006年までに男女732名がこの高校を卒業し、その95%が大学に合格。優秀な難民学校として認められているという。

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新しい学校では、カズニー州の教育省からの要請で、2009年から小学1年生より受入ができている

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1989年成人を対象に「技術習得奨励基金」を創設。自立のための看護士、検査技師学校を併設し、1995年には生徒数1300人を超え、初の高校卒業生を送るまでになった

 

風土病、リーシュマニアと闘う

 当団体の支援で1987年から1995年までにパキスタンのクリニックで治療した患者数は13万人以上をかぞえたが、1992年4月ソ連軍の撤退によりアフガニスタンが暫定評議会政権に移行、パキスタン政府はアフガニスタン難民援助活動を認めず、パキスタン国内での活動が困難になり、そこで新たに1995年8月アフガニスタン国の首都カブールに「マラリア・リーシュマニア クリニック」を開設、マラリアと風土病であるリーシュマニア症の診療が始まった。

 リーシュマニア症は、蚊の3分の1ほどの大きさの吸血蝿サシチョウバエを媒介として伝染する皮膚病で、患部にかさぶたの様な醜い黒点ができ、やがて皮膚が腐るようになる。特に女性の場合は、病に対する理解不足により婚約解消や離婚という言われなき差別を受ける場合があり、現地の社会的問題となっている。クリニックの治療患者数は、年間約1万人近くにもなっている。タリバンがアフガニスタン領土の4分の3を支配、女性職員中心のクリニックにも厳しいイスラム原理主義を要求し、女性の活動を制限したために運営が困難を極めた。そして、1998年、米国がアフガニスタンにミサイル攻撃。その間にも患者の治療は続けられ、97、98、99年までに5万人近くの治療を行なった。

 2001年9月に同時多発テロが起こり、10月米国がアフガニスタンのタリバン攻撃を開始、リーシュマニアの治療薬の値段が高騰した。その間日本では、奈良駅前でアフガン難民支援の募金活動を行なったが難民の数も増大し、依然資金不足は解消されない。会では新難民を対象に新たに移動クリニックを開始した。ここでは子どもと女性を優先的に治療し、生活援助支援も行った。またカブールでの診療では、リーシュマニアとマラリアのほか、一般疾患の診療も開始した。その後徐々に献金も増え、ホームページへのアクセス件数も増加し、2001年に外務省から「草の根無償援助」を受け2002年5月から2004年4月までの2年間、3つのカブール移動クリニックを運営、リーシュマニア症5万5千人超の医療支援を行った。

 2009年もアフガニスタンには、リーシュマニア症を専門に扱う医療機関が少ないために、資金不足の「燈台」のクリニックの継続を願ったスタッフたちは減給やリストラなどを受け入れ、薬代の実費を患者に負担してもらうことにした。それは現地の人々にとってはけっして安い額ではないが、患者が増える冬の時期にもほぼ例年並の患者がクリニックで診療を受けている。

 「アフガニスタンの人々が自力で生活し、運営していけるようこの支援活動を継続したい」と星野さんは淡々と語ってくれた。この会のスタッフはすべて無給で動いているという。資金は、スタッフが全国の大学やキリスト教関係機関に働きかけて募金活動で得たもの。一部の篤志家の寄附も、すべて現地に送金している。

 一刻も早くアフガニスタンが平和を取り戻し、普通の暮らしを市民ができるように祈るばかりである。

tsunaga09_toudai4.jpgリーシュマニア症は、吸血蝿サシチョウバエを媒介として伝染する皮膚病。患部にかさぶたの様な醜い黒点ができ、放って置くとやがて皮膚が腐ってしまう。病に対する理解不足もあって特に女性の場合、婚約解消や離婚という言われなき差別を受けることもあるという