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市民シアター・エフ

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「愛染かつら」の上映から始まった 

 「深谷シネマ」を運営する「市民シアター・エフ」理事長の竹石研二さんにお話をうかがった。竹石さんは奥さんの故郷深谷市に増えつつある空き店舗を活用して街の活性化を図れないかと考え、この際自分も50歳の節目を迎えて脱サラし、夢だったミニシアターを作ろうと決心した。

 2000年4月、竹石さんは仲間たちとNPOを立ち上げ、洋品店の空きスペースを借りて「愛染かつら」(1937年・松竹)を上映。これが大好評で、映画の幕が下りた後も大勢の客(ほとんど70代以上の女性)がお茶とお菓子で昔話に花を咲かせ、主題歌の大合唱で盛り上がったという。「NPO立ち上げには行政との協働が基本になりました。というのは、映画を商業的な側面からだけでなく、文化として捉え直すと、そこには公共性という側面があるので、どうしても行政との協働が必要だったのです。そして、TMOとの出会いがラッキーだった。TMOがなかったら(立ち上げは)難しかった」と竹石さんは振り返る。

 

深谷のTMOは成功事例

 TMOとは「タウンマネージメント機関」の略称。1998年成立の「中心市街地活性化法」に基づいて国がそのTMO構想を奨励し、市街地活性化策のエースとして全国に導入されていった。当時竹石さんたちのNPOは「深谷TMO構想」の会議に参加し、①空き店舗対策事業(「深谷シネマ」など)②空き地対策事業(ワゴンショップなど)③活性化対策事業(「花の街ふかや映画祭」など)④街並み形成事業(共同店舗開発など)等の活性化策を打ち出した。竹石さんは「深谷のTMOはまずまずの成功事例でした」と語った。

 2002年に元銀行の建物を改装して「深谷シネマ」がスタート。2006年には県のNPO協働提案推進事業にも採択され、羽生市と秩父市での「街の映画館」づくりと県内のコミュニティシネマを応援し始めた。コミュニティシネマとは街なか映画館のことを言い、これは全国的に増えつつあると竹石さんは語る。「背景には郊外型大型商業施設の増加による中心街の空洞化という現実がある。既存の映画館がシネマ・コンプレックス(複合型映画館)に取って代わられるのは時間の問題。そうなれば街の空洞化に拍車がかかる。でもシネコンで上映する作品はどこも同じものばかりではないですか。(シネコンの画一性に満足できず)多様性を求める市民は他の映画館に足を運ぶことになるのです」――だからこそ「深谷シネマ」なのだと。映画を観に来る人は街で食事もする、商店に立ち寄って買い物もする、そこに交流も生まれる。

 

 

「旧七ツ梅酒造跡」への移転

 「市民シアター・エフ」はその他、フィルムコミッション(ロケ地の提供など)や「花の街ふかや映画祭」などへと活動の幅を広げている。竹石さんによれば、2009年10月に開催された同映画祭は、深谷市内の「旧七ツ梅酒造跡」でも撮影された役所広司の初監督作品「ガマの油」の上映や、インディーズフィルムの上映が人気を集めるなどして、過去6回中最も盛況だったという。またこの時期と相前後して「深谷シネマ」では、話題のドキュメンタリー映画「嗚呼 満蒙開拓団」(2008年・羽田澄子監督)の上映会を行い、上映後には3人の元開拓団員がその体験談を語って評判を呼んだ。

 そんな「深谷シネマ」が深谷市の区画整理事業により、2010年3月までに移転する運びとなった。移転先は上にも触れた「旧七ツ梅酒造跡」。現在の建物からすぐ近くにある。「花の街ふかや映画祭」のメイン会場にもなるこの建物は、江戸時代の蔵などが立ち並び、映画「ヴィヨンの妻」(2009年・根岸吉太郎監督)「ゼロの焦点」(同・犬童一心監督)のロケ地にもなった。

theaterf1.jpg 移転前の深谷シネマ

 

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 移転先の旧七ッ梅酒造跡

 

 

☆協働相手からの応援コメント☆ 
深谷商工会議所 村岡豊氏
 私たちがNPOの皆さんと手を携えて行く先には、街づくりへの強い思いがあります。商工会議所の動きにくいところはNPOが、逆にNPOの動きにくいところは私たちが、という補完関係です。「深谷シネマ」立ち上げの前、空き店舗対策の一環として市民にアンケートを取ったことがあり、そこで「深谷に映画館が欲しい」という声が多かった。それまで深谷には30年間以上映画館が一軒もなかったのです。そんな折、竹石さんたちが映像関係のNPOを立ち上げ、「深谷TMO構想」(街づくり計画)のメンバーに参加したことが、商工会議所から街づくりメンバーに加わっていた者から知らされたのです。「面白い人がいるぞ」と。それでお会いして活動をともにすることになったわけです。